近世の公用交通路をめぐる情報―瀬戸内海を中心に―(初版)
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近世の公用交通路をめぐる情報―瀬戸内海を中心に―(初版)
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投稿日時 2014/6/14 3:25 | 最終変更
t_kamog
居住地: 広島県
投稿数: 1
ISBN:978-4-7924-0993-7
著者:鴨頭 俊宏(かもがしら としひろ)
※著者本人による誤植およびその訂正の報告です。
[訂正事項の分類]
●印は、著者による誤植(ケアレスの誤記、校正ミスなど)を訂正するもの。
△印は、誤植ではなくて、記述内容の補足、または出版後新たに判明した史実について訂正するもの。
◇印は、誤植ではなくて、索引における用語の配置を訂正するもの。
_________________________________
● 12頁19行目&341頁22行目
[誤]宮路正人 →→[正]宮地正人
● 21頁1行目
[誤]支えつつづける力 →→[正]支えつづける力
● 26頁7行目
[誤]構成する宿役人 →→[正]構成する宿住民
△29頁12行目&337頁8行目
[元]『黒船異変』 →→[正]『黒船異変―ペリーの挑戦―』
● 31頁6・8行目&337頁17行目
[誤]『宿駅と街道』 →→[正]『宿場と街道―五街道入門―』
※第3刷1995年 →→※初版1986年、第3刷1994年に発行。
● 62頁12~13行目
[誤]事実を提起し、この伝達ルートを「在番ルート」とよんだ。
→→[正]事実を指摘したものである。この伝達ルートを以下「在番ルート」とよぶ。
● 85頁6行目
[誤]為政者全体 →→[正]為政者全般
● 90頁16行目
[誤]掛候リ候付、 →→[正]掛リ候付、
● 106頁18行目
[誤]佐(野)之 →→[正]佐之(野)
※ルビの位置を一文字分下げる。
● 112頁4行目&333頁8行目
[誤]一九八一年 →→[正]一九八六年
● 159頁 表18 No.5行「パターン4」列
[誤]2件11% →→[正]3件16%
△165頁1行目
[元]問い合わせたものと推定される。
→→[正]問い合わせたことを推定させる。
● 170頁 註(30)
[誤]天明五年(一七八五)年ごろ →→[正]天明五年(一七八五)ごろ
△181頁 表19 No.3・4行 「長崎での発信者」列
[元]?・徳見文平 →→[正](長州藩)長崎聞役・徳見文平(景之)
△183頁 同表 No.49行 同列
[元]?・田北太■ →→[正](長州藩)長崎聞役・田北太中(惟芳)
△同頁 同表 No.63・64行 同列
[元]?・笠原新九右衛門 →→[正](長州藩)長崎聞役・笠原新左衛門(頼栄)
△同頁 同表 No.74行 同列
[元]?・内藤五郎兵衛 →→[正](長州藩)長崎聞役・内藤五郎兵衛(廉常)
△196頁4行目
[元]赤間関の在勤役人和智牧太
→→[正]長州藩長崎聞役の和智牧太(履実)
△198頁 表22No.1行「入手・発信地」列
[元]赤間関 →→[正]長崎→赤間関
※本書では長崎上使(長崎奉行など)の帰府(長崎→江戸)について、長崎から先触と別途、通行予定情報を発信していた役人を長州藩の長崎聞役だと推定しています。しかし、出版後、別の史資料によって実証できることが明らかになりました。
実証の具体的な中身は交通史学会『交通史研究』85号掲載《研究ノート》「長崎上使帰府情報と長州藩の長崎聞役・八幡改方―安永~文化年間を中心に―」で別途説明しますが、この訂正は要するに、著者が確認した事実をまず明らかにしておこうとするものです。
●218頁22行目
[元]八原家御用日記刊行会 →→[正]八原家御用日記編集委員会
△220頁13行目
[元]四〇二頁 →→[正]四〇二~四〇三頁
●237頁5行目
[誤]米(一俵)≒(二・五石)だから、約二五石三斗
→→[正]米(一石)≒(二俵)だから、約五石三斗
251頁14行目
[誤]六一一頁。そこでは、→→[正]六一四頁。ただし、六一一頁では、
●242頁 表26 No.1行「岩城への支給」列
[正]「米」「(未詳)」、2つの枠を網かけ。
●302頁13~14行目
[誤]朝鮮人見島漂着 →→[正]朝鮮人奈古浦漂着
[誤]長州藩が用いた →→[正]長州藩の支藩である徳山藩が記録した
[誤]「毛利家文庫」 →→[正]「徳山毛利家文庫」
●336頁22行目
[誤]池内敏 一九八八年 →→[正]池内敏 一九九八年
●338頁13行目
[誤]松尾晋一 二〇一一年 →→[正]松尾晋一 二〇一〇年
◇370頁右段28行目「正条」(※「しょうじょう」と読む地名)
→→「(幕府)巡見使」の項の次へ移す。
◇371頁左段17~18行目「煎海鼠御用」「伊予地乗り航路」
→→順序を逆にする。
著者:鴨頭 俊宏(かもがしら としひろ)
※著者本人による誤植およびその訂正の報告です。
[訂正事項の分類]
●印は、著者による誤植(ケアレスの誤記、校正ミスなど)を訂正するもの。
△印は、誤植ではなくて、記述内容の補足、または出版後新たに判明した史実について訂正するもの。
◇印は、誤植ではなくて、索引における用語の配置を訂正するもの。
_________________________________
● 12頁19行目&341頁22行目
[誤]宮路正人 →→[正]宮地正人
● 21頁1行目
[誤]支えつつづける力 →→[正]支えつづける力
● 26頁7行目
[誤]構成する宿役人 →→[正]構成する宿住民
△29頁12行目&337頁8行目
[元]『黒船異変』 →→[正]『黒船異変―ペリーの挑戦―』
● 31頁6・8行目&337頁17行目
[誤]『宿駅と街道』 →→[正]『宿場と街道―五街道入門―』
※第3刷1995年 →→※初版1986年、第3刷1994年に発行。
● 62頁12~13行目
[誤]事実を提起し、この伝達ルートを「在番ルート」とよんだ。
→→[正]事実を指摘したものである。この伝達ルートを以下「在番ルート」とよぶ。
● 85頁6行目
[誤]為政者全体 →→[正]為政者全般
● 90頁16行目
[誤]掛候リ候付、 →→[正]掛リ候付、
● 106頁18行目
[誤]佐(野)之 →→[正]佐之(野)
※ルビの位置を一文字分下げる。
● 112頁4行目&333頁8行目
[誤]一九八一年 →→[正]一九八六年
● 159頁 表18 No.5行「パターン4」列
[誤]2件11% →→[正]3件16%
△165頁1行目
[元]問い合わせたものと推定される。
→→[正]問い合わせたことを推定させる。
● 170頁 註(30)
[誤]天明五年(一七八五)年ごろ →→[正]天明五年(一七八五)ごろ
△181頁 表19 No.3・4行 「長崎での発信者」列
[元]?・徳見文平 →→[正](長州藩)長崎聞役・徳見文平(景之)
△183頁 同表 No.49行 同列
[元]?・田北太■ →→[正](長州藩)長崎聞役・田北太中(惟芳)
△同頁 同表 No.63・64行 同列
[元]?・笠原新九右衛門 →→[正](長州藩)長崎聞役・笠原新左衛門(頼栄)
△同頁 同表 No.74行 同列
[元]?・内藤五郎兵衛 →→[正](長州藩)長崎聞役・内藤五郎兵衛(廉常)
△196頁4行目
[元]赤間関の在勤役人和智牧太
→→[正]長州藩長崎聞役の和智牧太(履実)
△198頁 表22No.1行「入手・発信地」列
[元]赤間関 →→[正]長崎→赤間関
※本書では長崎上使(長崎奉行など)の帰府(長崎→江戸)について、長崎から先触と別途、通行予定情報を発信していた役人を長州藩の長崎聞役だと推定しています。しかし、出版後、別の史資料によって実証できることが明らかになりました。
実証の具体的な中身は交通史学会『交通史研究』85号掲載《研究ノート》「長崎上使帰府情報と長州藩の長崎聞役・八幡改方―安永~文化年間を中心に―」で別途説明しますが、この訂正は要するに、著者が確認した事実をまず明らかにしておこうとするものです。
●218頁22行目
[元]八原家御用日記刊行会 →→[正]八原家御用日記編集委員会
△220頁13行目
[元]四〇二頁 →→[正]四〇二~四〇三頁
●237頁5行目
[誤]米(一俵)≒(二・五石)だから、約二五石三斗
→→[正]米(一石)≒(二俵)だから、約五石三斗
251頁14行目
[誤]六一一頁。そこでは、→→[正]六一四頁。ただし、六一一頁では、
●242頁 表26 No.1行「岩城への支給」列
[正]「米」「(未詳)」、2つの枠を網かけ。
●302頁13~14行目
[誤]朝鮮人見島漂着 →→[正]朝鮮人奈古浦漂着
[誤]長州藩が用いた →→[正]長州藩の支藩である徳山藩が記録した
[誤]「毛利家文庫」 →→[正]「徳山毛利家文庫」
●336頁22行目
[誤]池内敏 一九八八年 →→[正]池内敏 一九九八年
●338頁13行目
[誤]松尾晋一 二〇一一年 →→[正]松尾晋一 二〇一〇年
◇370頁右段28行目「正条」(※「しょうじょう」と読む地名)
→→「(幕府)巡見使」の項の次へ移す。
◇371頁左段17~18行目「煎海鼠御用」「伊予地乗り航路」
→→順序を逆にする。
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